Kashima Soccer Room

Momosaka

ロングステイ

10歳 前半

Jリーグが始まる、らしい。体育の時間で初めて体験したサッカーという球技を好きになり、少年スポーツ団にも入った僕のために、お父さんが開幕戦のチケットを手に入れてくれた。本当はテレビで見たことがあるヴェルディ川崎の試合に行きたかったが、お父さんが買ってきたのは鹿島アントラーズというチームの試合のチケットだった。

お父さんに言わせれば、この試合でもチケットを手に入れるのがとても大変だったらしい。金券ショップという場所では、僕が考えられないような値段で売られている、と言っていた。そんなお店があるからいけないんだ、と僕は「金券ショップ」なるものを良く知らないにも関わらず文句を言いたくなるが、大人の世界には色々あるのだろう。実際、しばらく経ってからお母さんに聞いた話では、お父さんもアントラーズ対グランパスのチケットを金券ショップで2枚買ったらしい。

試合の日、お父さんの車に乗ってスタジアムに行くことになった。関東なら車で行けるだろう、ジーコもリネカーもいるしな、という理由でアントラーズ対グランパスの試合を選んだらしいが、いざ鹿島スタジアムの住所を調べてみると意外にも遠いことが分かり、それ以上に「周りに何もないじゃなか」と騒いでいた。そもそも、サッカー観戦というものは試合が始まるどれくらい前からスタジアムに行けばいいのかも分からなかったが、僕たちが到着すると既に大勢の人がいた。みんな赤い洋服を着ている。

試合が始まろうとしている。観客席では応援団が見たことない楽器を使い、聞いたことがない音が耳に飛び込んでくる。周りを見渡すと、チラホラと空席が目立ち、この試合のチケットは本当は簡単に取ることが出来たのではないか、お父さんは損をしてしまったのではないか、と不安になったが、試合が始まったと同時に、そんなことを気にしている余裕はなくなった。楽しすぎる。隣で試合を観ているお父さんも先ほどまでは静かに観ていたが、いてもたってもいられなくなったのか、突然「がんばれー」と叫んだ。僕は思わずお父さんの方を見るが、お父さんは試合に夢中になっており、僕もピッチに目を戻す。その瞬間、ジーコにボールが渡った。ジーコがパスを出すが、相手に止められる。しかし、こぼれ球が再びジーコの元に転がた。「いけっ」と声が出る。ジーコの右足から放たれたシュートがネットに突き刺さった。それだけのことなのに、なんでこんなに嬉しいのか分からない。自然と叫んでいる。

10歳 後半

自然と叫んでいる。思わず汚い言葉を使ってしまい、お父さんに叱られるかと思ったが、いつもなら「こら、タクミ」と注意するお父さんもテレビに向かって僕の知らない言葉、恐らくは汚い言葉を叫んでおり、普段はそのお父さんをなだめる役割のお母さんも「さっきから酷すぎる」と嘆いている。つまり今、早川家にいる全員が、テレビの中にいる審判に向かって文句を言っていた。

Jリーグが始まる前、ヴェルディ川崎の試合をスタジアムで観たがっていた僕が、ヴェルディ川崎にペナルティキックが与えられてこんなにも怒っている。たった1試合、スタジアムで鹿島アントラーズの試合を観たことがあるだけなのに、こんなにも鹿島アントラーズに勝ってほしいと願っている。そして、さっきから審判には怒っている。自分には直接関係がない出来事のはずなのに、こんなにも怒りがこみ上げてくるなんて、不思議な気持ちだ、と自分でも思う。

優勝決定戦、1試合を0-2で負けた鹿島アントラーズは今日、2点以上をつけて勝たなくてはいけなかった。前半は良かった。スタジアムに観に行った試合でも2点を決めたアルシンドが先制点を決めてくれた。あと1点だ、あと1点取れば追いつける。しかし、その1点が入らない。そして今、ヴェルディ川崎にペナルティキックが与えらてしまった。

大丈夫だ、大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。キーパーが止めてくれる。それか相手が外してくる。もし決めれても、こっちにはジーコがいる。2点くらいすぐに決めれる。ボールをヴェルディ川崎のカズがペナルティスポットにセットした。Jリーグが始まる前までは憧れの存在だった、気がする。カズのプレーをテレビで観て、スポーツ少年団の活動でカズのプレーを真似していた。今では厄介な敵でしかない。ホイッスルが鳴る。早く蹴って、早く外せ、と心の中で神様にお願いしたあとで、神様って誰なんだろうと考える。カズよりも先にジーコが動く姿がテレビに映し出された。

試合が終わり、鹿島アントラーズの選手たちがファンに向かって挨拶している。スタンドにいるファンたちは拍手したり、旗を振ったり、立ち上がって選手たちに声援を送っていた。悔しくないのか、と僕は驚いたが、試合が終わってからずっと放心状態だったお父さんも、テレビに鹿島アントラーズの選手が映し出されると必死に手を叩き出し、「ありがとう」とテレビに向かって声を掛けている。その姿を見て、そうか、みんな悔しい気持ちを押し殺して拍手しているのか、と分かる。僕も自然とピッチに向けて手を叩く。