Kashima Soccer Room

Momosaka

ロングステイ

24歳 前半

隣の中年男性が倒れ込んだ。「ええ、大丈夫ですか?」慌てて声を掛けると、「ごめんよ早川君、転んじゃって。やっぱり雪道は怖いねえ」凍結路で転んだ上司の宮本さんを起こしながら、「この時期の東北ってこんな雪だらけなんですね」と辺りを見渡しながら言う。「舐めていました」「そうだねえ。まさか新幹線まで運休するなんて。早川くん明日用事とかなかった?大丈夫?」「まあ、仕方ないです。大丈夫です」大丈夫、なんてことはまるでない。高校を卒業してから初めて、鹿島アントラーズのリーグ開幕戦を見逃すことになる。「でも出張って、色んな人の予定を壊す、嫌な存在なんですね」六年前、急な出張でチャンピオンシップを観に行けなかった父の無念さをこんな形で知ることになるとは思っていなかった。

取引先との契約は無事に終わった。会社に入って2年目の僕は初めての出張で「ベテランの宮本さんの仕事ぶりを見て学ぶ」ことが今回の仕事だったので活躍も失態もしていないのだが、大雪の影響で東京に帰れなくなることは想定外だった。翌日の午前中まで新幹線の運休が決まっており、どれだけ頑張っても開幕戦のキックオフまでに等々力陸上競技場に到着するのは不可能だろう。鹿島アントラーズは等々力陸上競技場との相性が悪く、まったく好きなスタジアムではないが、行けないことが決まった今、等々力陸上競技場のアウェイ側の待機列すら恋しくて仕方ない。

その日の夜、新たに予約したビジネスホテルに到着し、テレビ中継でもいいのでなんとか明日の開幕戦を観る方法を考える。今年からJリーグはスカパーで全試合ライブ配信される。自宅ではスカパーのアンテナを設置し、視聴できる環境を整えたが、自宅にいなくては意味がない。せっかく放送権を買ったんだからパソコンや携帯電話でも観れるようにしてくれたらいいのに、と思うがそんな空想は夢物語でしかない。そもそも携帯電話で観ることが出来たとしても画面が小さすぎる。

市内でスカパーと契約しているホテルや漫画喫茶を探したが見つからず、市内唯一のスポーツバーでは地元のベガルタ仙台の試合を放送するらしい。これはもう無理ではないか、と諦めかけていると、携帯電話に宮本さんから「折角だから飲みにでも行こうか」とメールが届く。このまま悩んでいても仕方ないと思い、「行きましょう」と返信する。ホテルの近くにあった居酒屋に入り、藁にも縋る思いで宮本さんに事情を説明し、相談すると「そうか、早川君は鹿島アントラーズのサポーターだったのか」と嬉しそうに言った。「そうなんです。知ってますか?鹿島のこと」「ああ、知っているよ」宮本さんが笑いながら言う。「強いチームだな」「強いチームです」

「試合を観るのは諦めて、応援に集中したら」と提案されたのは最初の乾杯から1時間以上が経過した頃だった。お酒も回り、少し呂律が回らなくった宮本さんが突如、「明日の試合を観る方法」の話題に戻り、応援に集中すること案を出してきた。「どういうことですか?」「スタジアムに行くことは出来ないなら、スタジアムじゃないとこから応援するしかないじゃないのかなあ。本当はテレビで見ながら応援するのがいいんだろうけど、それも無理なら携帯電話で速報だけみながら、頭の中で試合をイメージして、いや、どうせならスタジアムに行くところからかな」「スタジアムに行くのもイメージですか?」「そうそう。さっきのホテルね、こんな大雪の時期だからか全然お客さんがいないらしくて、無料でロングステイプランにアップグレードしてくれたんだよ」「ロングステイプラン?」「翌日の20時までにチェックアウトすればいいんだって」「すごいロングステイですね」「そう、だからね、まず明日起きたら、スタジアムに行く準備のイメージをする」「ユニフォームとタオルマフラーを持って」僕はその場で目をつぶり、自分しかいないホテルの部屋でレプリカユニフォームとタオルマフラーを鞄に入れる自分の姿を想像する。「それで、頭の中で電車やバスに乗る。自分で想像してしまえば何でも実現できるんだから、電車もバスもガラガラで早川君はずっと座ったままスタジアムに行ける。それで試合が始まったら、応援する。ホテルだから叫べはしないけど、心の中で思い続ければ伝わるんじゃないかなあ」

目を閉じて、スタジアムに到着した。サポーターはまだ一人も見つからない。一番乗りだ。少し寂しいので、等々力陸上競技場の外壁にビッグフラッグを投影する。入場時間まで待ちきれない。ボールを蹴ろうと、頭の中でジーコを描き出した。大雨の影響で出来ていた水たまりに手をかざし、地面を乾かそうとするが、どんな環境でもサッカーは楽しい、という声が聞こえ、そのままにする。ボールを蹴っていると、太陽が出てきた。サポーターはまだいない。試合が始まろうとしている。いつかまたスタジアムに行けたとき、みんなと一緒にチャントを歌い、感情を共有し、大声で叫ぶために、今は心の中で勝利を願っている。目を開けて、携帯電話でスコア速報のページを表示する。

24歳 後半

携帯電話でスコア速報のページを表示する。そして、ブックメークから削除する。8連勝まで来た。9連勝で終わりたい。それでダメなら仕方ない。この試合に勝ちたいだけだ。早朝6時30分、東京駅から高速バスに乗り込み、カシマサッカースタジアムに到着した。待機列はみたことがないほどの行列が出来ている。11時30分、スタジアムに入場する。いつも通り、ハム焼きやもつ煮を食べ、自分の中にある緊張やタイトルへの飢えを誤魔化す。この試合に勝ちたいだけだ。

長年タイトルから遠ざかり、遂には「勝負弱い」とまで言われ出した鹿島アントラーズは今季、ブラジルから新しい監督を招聘し、助っ人外国人も入れ替えた。シーズン序盤は新監督の戦術は浸透せず、開幕5連敗と最悪のスタートとなったが、それでも、ここまで来た。鹿島が勝利した場合、他会場の結果により優勝が決まるが、その他会場の情報をシャットアウトすることが発表されていた。普段ならハーフタイムに他会場の途中経過が映し出されるのだが、それも表示されないという。クラブから「試合だけに集中しろ」というサポーターへのメッセージだろう。対戦相手は浦和レッズじゃなく、清水エスパルスだ。自分に言い聞かせ、キックオフの瞬間を迎える。

曽ヶ端準のキックに抜け出した田代有三がマルキーニョスにパスを出し、リードを3点に広げる追加点が決まった。試合はまだ30分以上残っているが、勝利はほぼ決まったといってもいいだろう。しかし、ピッチ上の選手はもちろん、観客席にも他会場の様子を気にしているサポーターはいない。目の前の試合の勝利の為に声を出していた。失点する気配もないまま、時間が進んでいく。試合終了を告げる笛が鳴り響く。

試合が終わった。9連勝だ、と安堵したのも束の間、ベンチからオズワルド・オリヴェイラが飛び出してきて、徐々にスタジアムのどよめきが大きくなっていく。「優勝」という言葉があちらこちらに飛び交っている。自分も放心状態で「優勝」と呟いていた。大型ビジョンに日産スタジアムの様子が映し出される。まだ終わってないのかよ、と不安な気持ちが芽生えるが、いまの俺たちが失点するわけがない。鹿島の新たな黄金時代到来を告げる笛が鳴り響き、歓喜が爆発する。「うおおお」と言葉にならない言葉を叫んだ。